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ベートーヴェン作曲 「エリーゼのために」の弾き方

ベートーヴェン バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 イ短調

〇ベートーヴェンについて
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年に神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現在のドイツ)のボンに生まれました。
ほとんどの学校の音楽室には、ややしかめっ面をしているような彼の肖像画があるのではないかと思われますが、
実際の記録として残っている彼はいったいどのような人物だったのでしょうか。
ベートーヴェンの祖父は宮廷楽団のバス歌手であり、その他にワインを販売したり農民への金貸しをしたりと、裕福でした。
そして父親ヨハンも宮廷楽団のテノール歌手として働きながら、クラヴィーアを教えていました。
神童として世に出すために、息子ベートーヴェンにも厳しい音楽教育を行いました。しかしヨハンは重度のアルコール中毒で、収入がない月も少なくありませんでした。
祖父の援助により成り立っていた一家の生活は、祖父の死後、困窮します。
そんなヨハンは、息子でお金儲けをしようと考えたのか、1778年には本来7歳半のベートーヴェンを6歳と偽り、演奏会に出演させています。
年を若く偽ることで、神童としてたくさんの演奏会に出演させようとしたようです。
母親マリア・マグダレーナは、ベートーヴェンを愛し、心配しながらもそのような父親を諫めることができませんでした。
1787年に、モーツァルトのもとで勉強するためにウィーンに行きますが、この年のモーツァルトはとても忙しく、
ベートーヴェンも結核を患っていた母親の危篤の知らせを受けてウィーンに着いたものの、2週間ほどですぐにボンに帰りました。
そのためモーツァルトのもとで勉強することはできませんでした。そしてその後すぐに母親が他界します。
ベートーヴェンが17歳の時のことでした。母の死後、父親のアルコール中毒はますますひどくなり、
17歳にしてベートーヴェンはアルコール中毒の父親と2人の幼い弟の面倒を見ることになります。
ベートーヴェンのお金に対する執着はこのころからあったのかもしれません。この年も次の年も作品を書いていないことから、
一家の生活のため、いかに大変な思いをして生きていたのかをうかがうことができます。
この頃、11歳のときから数年していた宮廷オルガニストの仕事を再び始め、貴族の子どもたちにピアノを教え始めました。
その貴族の家の中にブロイニング家がありました。彼はこのブロイニング家で多くの時間を過ごします。
当主のヘレーネは若くして夫を亡くし4人の子どもを育てていました。
そのヘレーネは母を亡くしたまだ若いベートーヴェンを我が子のようにかわいがり、遊びに連れて行ったり、礼儀作法やドイツ文学、ラテン語も教えました。
このブロイニング家は、ベートーヴェンの第二の家となりました。
そして彼は、教え子であり、この家の長女のエレオノーレと恋に落ちます。ベートーヴェンの初恋でした。そのような心の支えができた彼は再び作曲を始めます。
1792年には、ボンに立ち寄ったフランツ・ヨーゼフ・ハイドンに、皇帝ヨーゼフ2世死去の追悼のために書いたカンタータを見せ、才能を認められ彼の弟子になります。
その後は、ウィーンでハイドンの弟子として対位法などを学びながら、ボンの宮廷オルガニストの時代に培った即興演奏とレガート奏法によって、
ピアニストとしても活躍していきます。まずはピアニストとして名声を得て、その後作曲家としても地位を確立していきます。
この頃のハイドンは、自分の作品の整理をすることで忙しく、ベートーヴェンのもっと学びたいという意欲にこたえることができませんでした。
そのため、ベートーヴェンは2年後にはハイドンのもとを離れ、自分で勉強を続けます。
しかし、20代後半の1798年頃から、耳が徐々に聞こえにくくなっていきました。それと比例して彼自身も気難しく、扱いにくくなっていきます。
音楽家にとって耳が聞こえないということは致命的であり、絶望です。1801年には親友たちに手紙で耳ついての異常を打ち明けています。
1802年には弟たちに宛てて、有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」をウィーン近郊の町ハイリゲンシュタットで記し、
自殺を図ろうとしていたと考えられています(とらえ方には諸説ありますが)。
この遺書を書いた後、彼はもう一度音楽家として生きていこうと奮起し、これ以後さらに多くの名曲が残されることとなりました。
結局この遺書は投函されることはなく、ベートーヴェンの死後、机の奥から発見されます。
この続きは、また次回のコラムで書かせていただきます。

「エリーゼのために」について

バガテルとは小規模の作品であり、作曲家たちが大曲を書く過程で必要なくなったものを改めて小さい曲としてまとめたものでもあります。
ベートーヴェンのバガテルが基本的に有名です。
この曲は、1810年に作曲されました。テレーゼ・マルファッティという女性のために書かれた曲でもあります。
ベートーヴェンの作品の中でも特に有名で、聴いたことのない人はいないのではないかと思われます。
題名のエリーゼは、ベートーヴェンはあまり字が奇麗でなかったので、
彼が「テレーゼ」と書いたものを後世の人がテレーゼと読み間違えたためではないかと考えられています。
テレーゼ・マルファッティは気品のある美しい女性で、ジョバンニ・マルファッティというベートーヴェンの臨終のときにも立ち会った医師の兄の娘でした。
当時18歳で、ベートーヴェンは40歳。ベートーヴェンは本気で彼女に求婚しますが、もとより身分が違う2人なので叶う見込みもありませんでした。
そしてその通り、ベートーヴェンはふられてしまします。しかし、彼女との出会いによってこの素敵な曲が生まれたことを考えると、
少し大げさではありますが、人と人との出会いは奇跡のように素晴らしいものであると思います。

「エリーゼのために」の演奏について

この曲はA-B-A-C-Aという構成になっています。この曲は多くの出版社から出ているため、繰り返しの表記などによりそれぞれの楽譜で小節番号が異なっています。
Aは誰もが知っているメロディーがテーマとなった部分です。アウフタクトで始まるので拍の取り方に注意しましょう。
レガートの途中にはなっていますが、1拍目がどこにきているのかを忘れずに自分の頭の中に入れておきましょう。
また、レガートの最後の音はきちんとおさめて、決して大きくならないようにしましょう。
Aの部分での右手と左手のかけ合いは、男の人と女の人がお互いに語りかけ合っている場面を想像しながら弾いてみましょう。
Bは左手が伴奏のような形で右手は朗らかにうたうところと、右手は分散和音の形で左手はその右手に合わせてリズミカルに弾く部分となっています。
Aの部分はイ短調が続いていましたが、Bに入ってからはヘ長調からハ長調となり、短調から長調に変わるので、おおらかに明るい音でうたって弾きましょう。
Bが終わるとまた、Aに戻ってきます。
Cの部分は左手がポルタメントでaの音をずっと鳴らし続け、右手は重音で上がったり下がったりを繰り返します。
ここは二短調から変ロ長調そしてイ短調と調がどんどん変わります。
また、左手の同じ音(aやbなど)でのポルタメントと、右手の重音での上行下降で、切迫感を出していきましょう。
静かな悲しみが、嘆きへと変わり、やがてエネルギーが切れてしまう。そのような雰囲気が出せるように表現を工夫してみましょう。
最後のA部分は今までのことを思い返すようにしみじみとした気持ちで弾くのも良いでしょう。
たくさん出てきたこの有名なメロディーを最後どのように表現したいのか、じっくり考えて大切に弾いてみましょう。
この曲は、小学生くらいのときから弾くことができる曲ですが、年齢を重ねるにつれて感じ方も表現の仕方も変わってくる曲でもあります。
現在97歳の日本人ピアニストの方も、若い頃にはわからなかったこの曲の魅力に今改めて気付き、
再び弾いてみたら、新しい発見がたくさんあって楽しいのだとお話しされていました。
初めてこの曲を弾いてから、時間が経って再び弾いてみたとき、またそれから時間が経って弾いたときに自分がどのように感じるのか、
どのように表現できるのか、その変化を考えるととてもワクワクしますね。

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