モーツァルト作曲 トルコ行進曲の弾き方
モーツァルト ピアノソナタ第11番イ長調 第3楽章「トルコ行進曲」
〇モーツァルトについて
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年に神聖ローマ帝国(現オーストリア)のザルツブルクに生まれました。
正式名はヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モーツァルトという長い名前でした。
彼は途中、自分でセカンドネームを「アマデウス」とイタリア風に言い換えていますが、
これは当時、音楽の中心地であったイタリアの空気感を取り入れようとしていたのではないかと考えられています。
父親のレオポルト・モーツァルトは代々建築士などを生業としてきた家に生まれ、学業において優秀な人物でしたが、途中から音楽家に身を転じます。
そしてザルツブルクの宮廷作曲家兼ヴァイオリニストとなります。
当時としては、破天荒な生き方でした。母親アンナ・マリアは法律家の両親のもとで育ち、明るく家庭的な優しい女性でした。
彼らは7人の子供に恵まれますが、そのうち5人が幼いころに他界してしまい、成人したのは三女のマリア・アンナ(ナンネル)と末っ子のモーツァルトだけでした。
レオポルトは、「ナンネルの楽譜帳」と呼ばれる子どもたち専用の教則本を自作し、指導していました。
そのくらい子どもたちにかける期待が大きかったのだと考えられます。
最初は姉のナンネルが父にレッスンされているのを横で聴いていたモーツァルトですが、耳で聴いただけの和音をすぐにクラヴィーアで弾いてみせ父親を驚かせます。
モーツァルトが3歳の時のことでした。それから、父親はすぐにモーツァルトにも音楽教育を始め、彼の才能はどんどん開花し、
5歳で初めてクラヴィーア曲を作り、11歳でオラトリオやオペラを書きました。
神童として名を馳せたモーツァルトですが、最初の演奏旅行は6歳の誕生日直前の1762年1月。ミュンヘンで、バイエルン選帝侯に姉と共に演奏を披露し、賞賛を得ます。
同じ年の9月からウィーンに行き皇帝フランツ1世と皇妃マリア・テレジアの前で演奏をします。
その際、モーツァルトが宮廷の床で足を滑らせて転び、皇女マリア・アントニア(後のマリー・アントワネット)が助け起こしたという逸話が残っています。
神童モーツァルトは語学の才能にも恵まれていました。彼の作品や手紙からイタリア語やラテン語に深く通じていて、フランス語や英語も理解していたことがわかります。
仕事においては、はじめはザルツブルクで宮廷音楽家として父レオポルトとともに職を得ますが、新たな大司教とうまくいかずに仕事をやめて、
1777年、新しい職を求めてマンハイムに移ります。そのマンハイムに向かう途中で、いとこのマリア・アンナと出会い恋に落ちてしまいます。
奔放な彼女との恋愛は自然消滅で終わりますが、その後マンハイムに到着したモーツァルトはヴェーバー家の人々と知り合い、
その家の長女でソプラノ歌手であったアロイジア・ヴェーバーを本気で好きになってしまいます。
しかし、魅力的な女性であり、声楽家としても優秀だったアロイジアは俳優と結婚してしまい、モーツァルトの想いは届きませんでした。
そんな失恋もあったものの、惚れっぽく、言葉巧みに口説くため、様々な女性との噂が絶えなかったモーツァルトですが、
1782年、アロイジアの実の妹のコンスタンツェと結婚することとなります。
仕事もなく、アロイジアに失恋し、落ち込んでいたモーツァルトにコンスタンツェが優しく接したことで、彼女に次第に惹かれていったようです。
コンスタンツェとの結婚は、父親レオポルトや姉ナンネルの反対を押し切ってのものでした。
現在、お金の使い方や、不倫の噂、モーツァルトの死後の行動などから、悪妻として名高いコンスタンツェですが、
9年の短い結婚生活の中でモーツァルトは死ぬまで彼女を大切に思っていたことが手紙から読み取れます。
結婚後も、モーツァルトは同時代の作曲家の中では収入は多い方でしたが、浪費癖に加え、病気がちの妻の療養代、子どもたちの学費などがあり借金は増える一方でした。晩年は『魔笛』など大きな作品を書きながらも、体調が次第に悪くなり、1791年に若くしてこの世を去ります。
彼の死については多くの憶測があり、本来は病死とされていますが、毒殺も疑われていました。
その犯人と噂されたのが、彼のライバルであったサリエリです。サリエリはこの噂に死ぬまで苦しめられました。
この毒殺犯人サリエリ説は『アマデウス』という映画になっていますので是非一度ご覧ください。
モーツァルトの葬儀は、親族の他はごく近しい人々だけでひっそりと行われ(コンスタンツェは出席していなかった)、遺体もどこに葬られたのかわからないままです。
モーツァルトほどの人の最期にしてはあまりにも悲しいものですが、彼の遺した素晴らしい音楽は永遠に私たちの中で奏でられ続けます。
ピアノソナタ第11番イ長調について
このソナタは1783年に作曲されました。
この1783年という年は、大トルコ戦争の中でトルコ軍がウィーンを包囲し、
それに対してウィーンなどを治めていたハプスブルク家が勝利してからちょうど100年が経った記念の年でした。
そんな中、ウィーンでは様々なトルコに関するものがブームとなり、音楽もその一つでした。
モーツァルトもこのブームに乗って、打楽器が特徴的なトルコの軍隊音楽を取り入れ、この作品を書きました。
余談ですが、この当時打楽器を用いたトルコ風の楽曲がブームとなり、その打楽器もピアノに取り入れ、1人で演奏したいと考えた人がいました。
その人が考案した打楽器つきのピアノが1810年頃に制作されました。
一見普通のピアノですが、ペダルが多くついていて、そのペダルを踏むとドラムなどの打楽器が鳴るようになっていました。
本当にトルコ風の楽器を演奏するためのピアノとなっていました。
面白い発明でしたが、トルコ風音楽のブームが過ぎるとともに、このピアノも次第に使われなくなっていきました。
トルコ行進曲の演奏について
トルコ行進曲として有名なこの曲ですが、ピアノソナタ第11番の第3楽章として存在しているものです。
本来、楽譜には冒頭に「トルコ風」と書いてあるだけで、トルコ行進曲と明記されているわけではありません。
全体を通して左手の音型は、トルコ軍の楽隊で演奏される打楽器を表しています
。出だしから左手は速くなってしまいがちな音型ですが、焦らず一定のテンポで弾くようにしてください。
最初から改めて見ていくと、イ短調で始まります。Pという強弱記号の指示があるので、遠くの方でトルコ軍の演奏が聴こえているような雰囲気で演奏を始めてください。1,2,4小節の左手でスラーがついているところは、そのスラーをしっかり守ることでトルコ風のリズムが出てきます。
スラーの一つ目の音はしっかり入り、その後の2個目の音は力を抜いて、そのままスタッカートで続けます。
5小節目の右手の前打音は打楽器を表現してあります。スタッカートで軽やかに、しかし拍やリズムの躍動を忘れずに弾き進めてください。
8小節目からはハ長調になりますが、12小節目からはまたイ短調に戻ります。
この長調と短調は必ず音質や音量を変えて違いがわかるようにしてください。25小節目からは行進曲という名にふさわしいものとなっています。
ここからは軍隊が誇らしげに行進している様子を想像しながら、堂々と演奏してください。
決して焦らず、打楽器のような音色をだすことも忘れずに。32小節目からは嬰ヘ短調となり、右手のパッセージが続きます。
ここからの右手は16分音符の連続ですが、転ばないように1つ1つの音に心を寄り添わせて弾いてください。
上にいったり下にいったりする音型を楽しんで弾きましょう。56小節以降はまた前に出てきた形と同じものが続いていきます。
前と同じものが続くので、そのままあえて同じように弾くのも良いですが、少しずつ変化させてもまた面白くなるでしょう。
89小節からは今までオクターヴで出てきた音型をばらして1つずつ弾くようになっています。
力が入ったままだととても最後までもたないので脱力を意識しながら弾いてください。
96小節からはコーダとなり、最後に向かって輝かしい音で盛り上げていきましょう。
左手の前打音は打鍵を鋭くし、本物の打楽器のような音色で弾きましょう。1台のピアノからいろいろな楽器が聴こえてくるように、音色の研究をしましょう。
昔のように打楽器がついたピアノで弾くことも面白いと思いますが、現代のピアノで自ら様々な楽器の音色を模索して、
作り上げていくことがまたより一層音楽をする喜びをもたらしてくれるのだろうと思います。
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