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ドビュッシー作曲「月の光」の弾き方

ドビュッシー ベルガマスク組曲より「月の光」

ドビュッシーについて

1862年8月22日、アシル=クロード・ドビュッシー(のちにクロード=アシル・ドビュッシー)はフランス、パリのサン=ジェルマン=アン=レという町で、
5人兄弟の長男として生まれました。父親マニュエルは18歳で海兵隊となりました。
除隊した後にヴィクトリーヌと結婚し、陶器店を営みます。思うように繁盛しなかったため印刷会社に就職しますが、1870年の普仏戦争のせいで職を失います。
その後1871年に、パリでコミューンと呼ばれる独自の政権を作った人々で構成された国民軍に入り、プロイセンに屈服した政府側と戦うこととなります。
結果的に捕虜となり1年間服役してしまったマニュエルのせいで、ドビュッシーは犯罪者の息子となってしまいました。
この出来事が、もともと頑固で無口だったドビュッシーを更に頑なな性格にしてしまったのではないかと考えられています。
母親ヴィクトリーヌもどちらかというと冷たく短気で、子供にあまり愛情を与えられない女性だったようです。
金銭的に苦しかったということも彼女の短気さに拍車をかけていたようです。
ドビュッシーが8歳のときに、父親の姉であるクレマンティーヌがカンヌに住んでおり、母親と弟とともに会いにいきます。
そこで彼は初めて、ジャン・チェルッティというイタリア人の先生にピアノを習います。
音楽に初めて触れるとともに、カンヌの美しい情景が幼いドビュッシーの記憶に強烈な印象として残りました。
あまり幸福ではなかった幼少期の中でカンヌでの日々は、視覚、聴覚、嗅覚に美しい思い出として残りました。
9歳のときには、父親マニュエルが捕虜として服役していた時に収容所で出会った人物の伝手で、
ドビュッシーはアントワネット=フロール・モテ夫人にピアノを正式に習うことになりました。
彼女はとても優秀な教師であり、ドビュッシーは質の高いレッスンを受けることができたので、
1年後には国立パリ高等音楽院を受験できるまでに上達しました。
父親マニュエルもつらい思いをさせたことを償うように、息子のために必死になり音楽院の試験官でもあった作曲家の推薦状を手に入れました。
結果的にドビュッシーは倍率の高い試験に合格し、10歳の10月に国立パリ高等音楽院に入学しました。
そして12年間この音楽院に在籍することとなります。
10歳で入学するまで学校というものを体験したことのなかったドビュッシーは、頑固な上に協調性もなく、
人とコミュニケーションをとることが苦手で級友たちとなかなか馴染むことができませんでした。
しかし、教師たちは優しく、忍耐強く彼を見守りました。ピアノを教えたマルモンテのクラスには7年も在籍しました。
ピアノの成績は、魅力的で素質があるとされながらも、最終的にドビュッシーが望むものにはなりませんでした。
ソルフェージュのラヴィニャックのクラスでは、最初こそ音楽理論の知識の欠如のため良い成績ではなかったものの、
ラヴィニャックの辛抱強い指導とドビュッシーの努力により、4年後には第1等の成績でソルフェージュのクラスを終えることができました。
思うような成績が取れなかったピアノへの熱が冷めるにつれ、和声のクラスで教わった規則に満足できない気持ちが膨らんでいきます。
その自分の感性に正直に作曲した曲を友達に聴かせることが増え、作曲家の道へと進んでいきます。
18歳のとき、ドビュッシーの今後に大きな影響を与える多くの出会いがありました。
1人はチャイコフスキーのパトロンでもあった、ロシア人のナジェーダ・フォン・メック夫人です。
彼女の伴奏者として、夏を過ごします。そして彼女を通して、チャイコフスキーやその他ロシアの作曲家の曲を勉強することができました。
また、少しでも多く収入を得るために、モロー=サンティ夫人の歌のレッスンで伴奏をしていました。
そこでマリ=ブランシュ・ヴァニエ夫人という美しい女性と出会います。すぐに彼女を好きになり、熱烈にアタックします。
一途に慕ってくるドビュッシーを彼女も好きになり、相思相愛となります。しかし、彼女には夫がいました。
不倫関係となった2人はますます情熱を燃え上がらせました。
メック夫人やヴァニエ夫人といった教養のある人々と親交を持ったことにより、彼は様々なことを勉強することができ、見識が深まっていきました。
22歳の時に、3度目の挑戦でローマ大賞を受賞します。その翌年ローマへ留学することとなり、ヴァニエ夫人との関係も終わりました。
ローマのヴィラ・メディチで勉強を始めたドビュッシーですが、あまりローマが好きではなかったこと、
ヴァニエ夫人と離れてしまったことなどが彼を消極的にしていきます。
ローマではリストに会い、彼のために演奏するという機会に恵まれながらも、最低2年間という留学期間の規定通り、2年経つとすぐにフランスに帰国しました。
印象派、印象主義とされるドビュッシーですが、彼自身は全くそのつもりはなく、自由の中にある美しさを求めていった結果、
周りからの評価、時代の流れでそのように位置づけされることとなりました。
また、その時代の画家や詩人の作品から影響を受け、作曲していったことも彼が印象主義だと評される一因でした。

ベルガマスク組曲より「月の光」

ベルガマスク組曲という4曲からなる曲集の3曲目にあたるこの曲は、流れるようなフレーズと美しいハーモニーにより、作られています。
元々のタイトルが「感傷的な散歩道」だったのが後に「月の光」に変わったようです。
ベルガマスク組曲自体は、28歳から43歳までの長い年月をかけて完成されたものです。
ドビュッシーはヴェルレーヌの「雅なうたげ」という詩集の中の「月の光」からまず歌曲を作曲し、ヴァニエ夫人に送っています。
そしてその後ピアノ用にも作曲しました。

全体的な注意

ドビュッシーのピアノ曲を弾く時に多くの人が陥りがちな事は、ほとんどの音を薄くこもったように鳴らしてしまうことです。
もちろん、この曲はやわらかで、深く充実した響きが必要なことに間違いはありませんが、そのことと薄い味付けの料理の様な音を出すこととは全く話が違います。
抽象的な響きや表現が多いドビュッシーですが、その全ての音を抽象的にしていい訳ではなく、その美しさを際立たせるためにより多くの音の種類が必要とされるのです。特に重音のメロディーラインは音の多さに飲み込まれないように、しっかりとタッチを変えましょう。
全てを同じようにタッチしてしまうと、本当に大切な部分が分からなくなるからです。

特徴

この月の光では冒頭のメロディー、そのほとんどがタイで次の小節へと繋がれています。
このタイをおろそかにしてしまうと拍子感がなく、ただただあいまいな演奏になってしまいます。
「抽象的」と「あいまい」を同義に捉えてしまうのは演奏する上ではよくありません。
タイで繋がった一拍目をしっかり意識して、その長さ分より短くならないように注意しましょう。
その他にも2連符がよく出てくるのですが、これものっぺりとしたあいまいなリズムにならないようにしましょう。
常に大きい三拍子(9/8を三拍と数える)の中の細かい三つの拍を意識し、三拍子から逸脱しないように気を付けてください。

三拍子の感じ方

指揮をふる時、三拍子はどういう風にふるでしょうか。三角形を思い浮かべた方が多いと思います。
もちろん、間違いではないのですがこのようなやわらかい曲調の三拍子では三角形より円で感じると、より弾きやすくなります。
9/8拍子なので円を3回描くようにして123,223,323…と数えたらとてもやわらかく拍を感じることができます。
角が立つことがなく、なめらかに演奏できるようになります。

テンポのとり方

基本的には流れるように、揺らしすぎず演奏するとよいのですがTempo Rubato(自由なテンポで)の指示がある部分は少し抑揚を付けて弾くとよいでしょう。
抑揚の付け方ですが、好きに速くしたり遅くしたりしていい訳ではなく、1つのフレーズで一小節あたりの時間自体を平均してほとんど同じにするといいでしょう。
どういうことかと言うと、遅くしたら遅くしっぱなし、速くしたら速くしっぱなし、というように弾いてしまうとテンポの流れに収集がつかなくなりますが、
どこかで遅くしたらその分を同じフレーズ内でテンポを少し戻す、というように帳尻を合わせていけば停滞したり急いだりしているようには聴こえなくなります。
これに関しては様々なパターンが考えられるので、色々試してみてください。

まとめ

この曲ほど有名で聞き覚えがあると、なんとなくで演奏してしまう部分が出てくると思いますが、
今一度そうならないように楽譜を見直してみて他の曲を練習する時と同じように練習してみましょう。
楽譜に書かれていることが何を意味しているかということを知ることが大切です。

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