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リスト作曲「愛の夢第3番夜想曲」の弾き方

リスト 愛の夢第3番 夜想曲 変イ長調

リストについて

リストといえば、派手な演奏、美しい顔立ち、洗練された物腰で女性を夢中にさせていたという印象が強いですが、本当の彼はどのような人物だったのでしょうか。
1811年10月22日にハンガリーのライディング(現在のオーストリア領)で生まれました。当時にしては珍しく一人っ子でした。
祖父ゲオルクと父親アダムはエステルハージ家に仕えており、特に父親のアダムはハイドンが宮廷楽長を務めていたニコラウス・エステルハージ公に仕えていました。
祖父もゲオルクも父親アダムも音楽の才能に恵まれており、アダムは宮廷楽団でチェロを演奏していました。
リストが母親アンナのお腹にいる頃、彼女が足を滑らせ古井戸に落ち、一時はリストの命が危ぶまれたことがありました。
しかし無事に生まれてくることができ、生まれた日には大彗星が夜空に輝いていて、将来の輝かしさを暗示していたようだったと何度も聞かされたことから、
リストは大きくなっても常に神秘的なものに魅了されることとなりました。それも相まってリストは幼い頃から聖職者に憧れを抱いていました。
主にフランス語を話し、ハンガリー語はほとんど話せなかったリストですがですが、音楽活動をしていく中で自分がハンガリー人であるということに誇りを持ち、
そのハンガリーの音楽を追求したいという気持ちが死ぬまで彼の中にはありました。
6歳のころに父親からピアノを習い始めたリストは、すぐに才能を発揮します。
9歳のときにはデビュー演奏会を行い、ピアノ協奏曲を弾くまでになりました。
さらにリストの演奏を聴いたハンガリーの6人の貴族から奨学金をもらうことができたので、一家そろってウィーンへ行き、更に勉強を続けていくこととなりました。
ウィーンでは、ピアノをベートーヴェンの弟子であったチェルニーに習い、作曲理論をサリエリに習います。この時リストは11歳でした。
作曲理論をリストに教えていたサリエリは早くから彼の才能を見抜き、週3回無償で教えていたようです。
またリストたち家族が街中に住めるよう手配をするなどリストのためにつくします。
モーツァルトとの関係では怖いイメージがあるサリエリですが、本来は優しい寛容な人間だったようですね。
チェルニーはリストの生涯の中でただ一人のピアノの先生となりました。1年と数か月という短い期間ではありましたが、リストの上達は驚くべきもので、
最後には技術的にも音楽的にもほとんど問題がなく、素晴らしい演奏をしていたようです。
日本でもピアノを習っている一定数以上がチェルニーの練習曲を弾いたことがあるかと思いますが、リストも同じく、チェルニーの練習曲を使用していたようです。
チェルニーもまたリストに目をかけてわが子のように大事にしていたようで、リストはその時の恩を一生忘れることなく後に、「超絶技巧練習曲」を彼に献呈しました。
また、ウィーンでも演奏会デビューを果たし、大きく注目されます。この頃から作曲も始めていたようです。
12歳のときにはベートーヴェンにも会い、彼はその事を音楽家として一生誇りにしていました。
その後ハンガリーに戻って演奏会を開きますが、その年の12月にはパリへと向かいます。
パリではパリ音楽院へ入学しようとしますが、外国人であったため入学を拒否されます。
リストは大きなショックを受けますが、革新的な彼の考えが抑制されることにならなかったので、結果的にこのことが彼の人生にプラスに働いたとも考えられます。
入学できなかったリストは個人で作曲と音楽理論を習います。勉強を続ける中、演奏会も相当な量の回数があり、パリでも有名人になっていきます。
13歳の時にイギリスでも演奏会デビューを果たします。この頃エラールが開発した新しいグランドピアノを弾きました。
このとき開発されたピアノは急速な音の反復ができるようになっており、リストはこの楽器をとても気に入りました。
エラールのピアノはリストがずっと使い続けた楽器の一つとなりました。
それから14歳と16歳の年にもイギリスでの演奏旅行を行います。16歳になる少し前にイギリスでの演奏旅行を終え、
フランスで休養をとっているときに、父親アダムが腸チフスで急逝します。
リストは多大なショックを受けながら一人で立派に父親の葬儀の手配をしました。
そして母親を呼び寄せ、定期的に収入を得るためにパリでピアノ教師として働くこととなります。
  その後、ピアノ教師としてカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢に出会い、2人は恋に落ちます。しかし、身分の違う2人は引き離されます。
その後もリストが死ぬまで、離れてはいるもののお互いのことを友人以上に想い合い、交流があったようです。
この頃、父親の死、失恋、身分の差などで深く傷ついたリストは鬱状態となり、表舞台に出ることがなかったので死亡説まで流れていました。
この時期演奏会はしていなかったものの、教養を身につけるために本を読み漁っていました。教養を身につけても生まれは変わりません。
そのことがリストにとって長いことコンプレックスとなりました。そこで彼は芸術家の地位の向上のために尽力していくこととなります。
  19歳の時にベルリオーズに、20歳の時にはショパンやパガニーニと出会います。
彼らに会い、演奏を聴いたことでリストも大きな刺激を受けました。また21歳のときには後に恋仲になるマリー・ダグー夫人と出会います。
  リストは人格的にも優れた人物で、被災した人々、目の不自由な人々のために多くの慈善演奏を行いました。
演奏会では埋もれてしまっている多くの優秀な作曲家たちの曲を広め、どんな人物にもレッスンをしました。
女性関係の派手さに目がいきがちですが、このような人を大切に思う心を持ち合わせた人物でした。

愛の夢第3番 夜想曲 変イ長調

「愛の夢」はリストが作曲したピアノ曲ですが、元は歌曲として作曲した3つの曲を自身がピアノ独奏版に編曲したものです。
第3番の元の歌曲は「おお、愛しうる限り愛せ」”O lieb so lang du lieben kannst”というタイトルでフェルディナント・フライリヒラートによって書かれた詩です。
その内容を簡単に要約すると「いつか人は死に、それを嘆く時は来るのだから愛の限りに愛し、心を尽くし、自身に対し心を開いてくれる者にはこちらも心を開きその者を幸福で満たしなさい。心無い言葉を発してしまうと、後悔しても愛する人は悲しみとともに去ってしまう。」
といったような内容になります。
誰かを想うと言うよりも人間の愛を一心にうたうようなこの詩に、リストはどんな思いで曲を付けたのでしょうか。

全体の注意

愛の夢の副題は3つのノクターンであったように、基本的には夜想曲なのでPoco Allegroですが、
あまり早すぎずに少しだけ前に進むようなテンポで弾くといいでしょう。
con affettoは愛情を持ってという意味で、冒頭にはdolce(優しく)とcantando(歌うように) とあります。
メロディー自体はしっとり優しく歌い上げるとよいのですが、
そのほかの分散和音はあまり重くならずにメロディーラインをつなぐ事を意識するとフレーズが途切れず先に進めるでしょう。

同じ音型が多く出てくる場合はハーモニーを大事に

この曲は基本的にメロディーと八分音符の分散和音で作られています。そのためリズムでは変化を付けることが出来ないので、
ハーモニーの変化を細かくフォローして演奏しましょう。カデンツ(終止形)のある部分ではどんな和声進行のパターンで終結しているのか、
そうでない部分はどのように変化しているのかを注意深く観察してください。
例えば1,2小節目の変化は右手のE♭がE♮にA♭がB♭に、左手A♭のベースラインがGに、というすべて隣同士の音に変化しているだけです。
一見あまり変化していないように見えるのですが、全ての音程が広がっています。
そして最初~6小節目までは、常に次の小節に向けて和声が作られています。
そのことから音のふくらみを増やしながらも停滞してはいけないということになります。
わずかですが音を変化させる(※1)少し前に時間を持たせると、その変化がより色濃く現れます。
そして変化させた後は止まらずに先に進みましょう。そうすることでメロディーが際立ちながら、ハーモニーの変化の上に乗せることが出来るようになります。
(※1)この場合はメロディーがハーモニーの一部になっているので1拍目の前に少し時間を取る。

その他の要素

この曲で他に気を付けるべきことは、小さな音符で書かれた即興的な部分を、あくまで即興的に演奏することです。
重く大きく弾いてしまうと前のフレーズと次のフレーズに間が空きすぎてしまい、やはり停滞してしまいます。
二か所にこれが出てきますがどちらも直前の分散和音の中で弾き切るイメージで演奏しましょう。

まとめ

この曲で大切なことはメロディーを大事に弾きすぎるあまり、分散和音がそれに引っ張られないようにすることです。
あくまでもメロディーを引き立たせるものとして意識しましょう。
歌声の様に伸びのあるテンポと弾き方が出来ればいい演奏が出来るでしょう。

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