ショパン作曲「別れの曲」の弾き方
ショパン 練習曲 作品10の3 「別れの曲」
○ショパンについて
フレデリック・フランソワ・ショパンは、1810年2月22日にポーランドのワルシャワでフランス人の父ミコワイとポーランド人の母ユスティナのもとに生まれました。
ショパン自身は自分の誕生日は3月1日であると言っていたようです。
父親ミコワイはフランスのロレーヌ地方の農民ともいえる身分の出身でありながら、当時にしては珍しく読み書きのできる少年であり、
その才覚を認められポーランドへ行くこととなりました。そしてユスティナと出会い結婚し、4人の子供に恵まれました。
1人だけの男の子だったショパンは、文学に造詣の深かった父親と音楽に長けていた母親のもとで、大切に、しかしのびのびと育てられました。
ショパンは4歳の頃から母や姉ルドヴィカにピアノを習っていましたが、6歳のときには即興で演奏をするまでになりました。
そこで、ヴォイチェフ・ジヴニーという先生がショパンにピアノを教えることとなりました。
ショパンはその先生からモーツァルト、バッハ、ハイドンなどを学びました。
7歳の頃にはショパンは最初の作品、ト短調のポロネーズを作曲しました。
父親ミコワイはワルシャワ高等学校で教えていましたが、しばらくショパンをそこに入学させようとはしませんでした。
ショパンが8歳から13歳までの5年間は、父親とその手伝いをしていたワルシャワ大学の学生による家庭での教育が行われ、
その間ショパンは学校の時間に左右されることなく毎日自由にピアノを練習する時間をとることができました。
そのことがショパンにとって幸運なこととなりました。すばらしく教養のあったショパンの両親に会うために、
詩人や文化人たちが家にくるのでショパンも様々な学者に会うことができました。
その中にエルスネルというワルシャワ高等音楽学校の校長をしていた人物がいました。ショパンは彼から音楽理論を学びました。
エルスネルはショパンを型にはめるのではなく、成長を見守ることに徹していました。
そのこともショパンにとって幸せなこととなりました。13歳の秋からは高等学校に入学しました。
学校内でも言語や文学、数学、科学もしっかりと勉強する優秀な生徒で、物まねや絵を描くことも上手で人気者でもありました。
15歳の頃には作品1を出版し、作曲に演奏会にと音楽家として本格的に活動し始めました。16歳になるとますます作曲活動を行うようになります。
しかしこの頃からリンパ腺が腫れるなどの結核の兆候が表れ、彼より症状のひどかった妹エミリアとともに母親に連れられ温泉保養に出かけました。
16歳の9月にワルシャワに戻り、父親の勧めでワルシャワ高等音楽学校に入学します。
ショパンはエルスネスに週に3回2時間ずつ対位法と作曲のレッスンを受けました。
そして入学した年には<3つのエコセーズ作品72の3>など次々と曲を作っていきました。大学では音楽だけでなく歴史や文学の授業も受けていました。
19歳のときにワルシャワ高等音楽学校を首席で卒業します。
19歳のときにはじめてウィーンへ行き、8月に演奏会を行います。立て続けに2回演奏会を行い、どちらも大成功に終わりました。
ワルシャワに帰ると更にショパンの名前は有名になっていました。そんな中、19歳の4月に出会ったコンスタンツヤ・ダワトコフスカに恋をします。
ショパンの初恋は彼女だったと言われています。一生の親友のティトゥスにも半年以上打ち明けることができないほどでした。
そんなコンスタンツヤと少しずつ中を深めていきますが、20歳の11月にポーランドを去りウィーンへ行くことになり、彼女とも別れることとなります。
親友のティトゥスはショパンに同行しウィーンに行きます。ショパンは彼をとても頼りにしていました。
ウィーンに到着したショパンは、援助を求め様々な人を訪ねます。
そんな中11月29日にワルシャワで武装蜂起が起こり、親友のティトゥスはポーランドに帰り戦うことを決めます。
ショパンも帰ろうと決心しますが、馬車に乗り遅れ1人でウィーンに残ることになってしまいました。
この頃のショパンの手紙には憂鬱さや孤独の文字がならんでいます。
家族やティトゥス、コンスタンツヤを心配し祖国に帰りたい気持ちが溢れていました。その後なんとか立ち直り、作曲活動も再開します。
このころワルシャワはロシアに占拠され、革命に参加した人々はパリに亡命しました。ティトゥスも故郷での仕事を始めます。
作曲活動を再開したショパンですが、ウィーンでは後ろ盾がなく演奏活動ができず、人々の冷たい反応に絶望し、パリへ行くことにします。
21歳の9月、パリへ行く途中のシュトゥットガルドでワルシャワがロシアに占拠されたことを漸く知り、深く絶望します。
そんな中作曲されたのが練習曲作品10の12「革命」だと言われています。そんな中ショパンはパリに到着します。
練習曲 作品10の3「別れの曲」
この曲は、練習曲作品10の3曲目に収められている曲です。
「別れの曲」というタイトルはショパン自身が命名したわけではなく、
1934年にドイツで放映された「別れの曲」という映画でこの曲が主題に使われ、それが日本でも放映されたことからこのように呼ばれることとなりました。
練習曲作品10は1833年に出版されました。この曲集はリストに献呈され、リストも好んでよく弾いていたと言われています。
ショパンの練習曲は指の訓練に役立つだけでなく芸術作品としてもすばらしいものであり、練習曲の理想的な形となっています。
ショパンはこの練習曲にピアノを演奏する上で必要な技術から音楽性まで様々な要素を集めています。
全体的な注意
この曲は常に多声部もしくは重音でメロディーが作られています。
そのため、右手の旋律部分においては常に外声(メロディーライン)を内声(ハーモニーの刻み)よりも出し続けなければいけません。
ただ音量に変化を付けるだけではなく、内声は柔らかい音でなめらかに出すように気を付けましょう。
続いて重音の部分も基本的には同じアプローチで、一番外側の音を聞かせていきます。
但し、フレーズが盛り上がっていく場面などは外声を支えるためにある程度の音量は必要になってきます。
しっかりと楽譜に書かれた記譜法の違いを意識しましょう。
左手も同じように外声のベースライン部分を大切にして、ハーモニーの流れをフレーズごとにまとめられればよいでしょう。
この時に、基本的なI,IV,Vの和音の理解があればなお、まとめやすくなるでしょう。
フレーズの作り方
基本的にはLento , ma non troppo で演奏するように指示があります。
Lentoは遅く、ma non troppo は度を越えないように、という意味なのであまり遅すぎないようにという指示になります。
拍子が2/4なのであまり遅くしすぎて4拍子に聞こえるように弾くと、流れが停滞してしまい退屈なものになってしまいます。
左手のシンコペーションのリズムを利用しながら、1拍目と2拍目の間を伸ばしすぎないように注意しましょう。
実際に歌ってみて心地よいテンポを探してみるのも効果的です。
曲の至る所にstretto やritenuto 、animato などのテンポを動かす指示が出てきますが、どれもやりすぎてテンポの流れを後退させたり、先に進ませすぎないように注意して、あくまでも元のテンポの範囲内で速さを調節するようにしましょう。
1フレーズがどこからどこまでかを最初にきっちり分けることが出来れば、その中でのテンポの動かし方も自然と見えてくるでしょう。
このようなゆったりとした曲では、その時その時ではなく全体を見て音楽を作っていくことを意識しましょう。
重音の弾き方
21小節目~テンポが上がり、重音でのメロディーが続きますが、急いでタッチし過ぎて乱暴な音が出ないように注意しましょう。
なめらかな手の重心移動を心掛けながら、やわらかい音質で音を出せるようにゆっくりと練習してください。
まとめ
基本的には右手の3,4,5の指はやわらかく、それでいてはっきりした音になるように、
1,2の指はメロディーの支えになるような音作りを目指すとバランスのいいものになるでしょう。
指先の技術的な事と、流れを作る事の両方に気を配らなくてはならない難曲ですが、
これらが出来るようになると大抵の叙情的な曲の技術的な部分は解決できるようになります。
焦らずに一つずつ練習してみてください。
公開日: